溜息をひとつ。
あたしは、かつてアデプトであって今はただの女であるところのあたし、“カシムの姉”であるところのアナは、夕暮れの都市の空を、揺れる空中移送筺(ゴンドラ)の中からぼんやりと見つめながら考える。
今日の陽が沈んでいく。
今日という日が終わっていく。
眩い蒼色が、夕刻の赫色に。やがて、星空か、星のない漆黒の夜空がやってくる。
ここではない遠い場所では、日によっては紫の空を見ることもあるというけれど、あたしは見たことがない。一度、見てみたいけれど。
少なくとも今日は無理。
だって、今日は終わってしまうんだもの。
北央歴2210年の今日。
連合歴537年の今日。
西歴1907年の今日。
暦。暦。暦。ヴァルーシアにとって、異邦の暦は幾つかある。
国ごとにひとつずつという訳ではないらしいけど、あたしがここ最近知ったのは少なくとも3つ。ひとつはカダス北央歴。もうひとつはカダス連合歴。そして、最後のひとつは西暦。北央帝国では西享歴とも呼ぶらしい。
砂漠大陸の太陽都市、ヴァルーシアにとってはどれも馴染みがない。
連合歴以外のふたつは、どちらも、《大天蓋》から始まるヴァルーシアの歴史の2倍もの長さがある。きっと勉強の面倒さも2倍なんだろうね。カシムは異邦西享に数年前まであったっていう旧・重機関都市ニューヨークに興味津々だけど、あたしには難しくて。
ああ、想像するだけで溜息が出る…。
「ふぅ」
あたしは、マザンダラン壁市へと揺れる移送筺の窓越しに空を見上げる。
砂漠の空を覆う仮面が消えて、もう、どれくらい経つのかな。
天蓋が外れ、砂漠の《盟約》の幾つかが消えて、漸く“真の解放がささやかなれども始まりつつある”って太守さまや西享の碩学さまたちが遠慮がちな喜びの言葉を添える、砂漠都市ヴァルーシア。
街の変化はゆっくりと。
市の変化はゆっくりと。
だから、都市全体の変化も、とても、ゆっくりとしたもの。
がらりと変わったなって感じてるのは、きっとあたしたちくらいのもので。
あたしたち。
アデプトだった、あたしたち。
旧碩学協会の屋敷を本部と定めて新たに運営が開始された図書館連盟。そこでジムイン…事務員として勤め始めて、暫く。ようやく慣れてきたなって思えてきた。最初のうちは同僚の女の子たちと何を話せばいいのかも分からなくってさ。
ただ、迷宮の話題をしなければいいだけ。
あとは、ラクシュや、これまで出会った年齢の近い女アデプトたちと同じで、感じたままに話せばいいだけなんだ、って気付くまで、も−、毎日気が重くて重くて…。勿論、感じたまま素直に全部話せばいいってものじゃないのは分かってる。
たとえば、アデプト同士で話してたって、仲間が死んだばっかりの奴に「誰だって死ぬんだから気に病むな」なんて言わないほうがいいのと同じ。だから、彼氏と別れてがっくり来てる子相手に…相手に…。なんて言えばいいんだっけ。だめだ、あたし、まだ慣れてないかも知れない。
ともかくも。
少しずつ、ゆっくりと、あたしは慣れていってる。
タイプライターの打ち方にも。
事務仕事って奴にも。
同僚の女の子たちにも。
杖剣を持たず、命を削らなくても、無事に過ぎて終わっていってくれる今日にもさ。
夕刻、ひとりで帰宅の途につくことも。
こういうことは、少なくないんだ。
何せ同じ連盟本部の資料部勤めであるところのカシムってば、優秀さを買われているのか、それならまだいいんだけど、実直さを利用されているんならちょっと考え物。それとも本人の希望するところだったり…。ああ、うん。多分、恐らく、ぜんぶ当てはまっているのだろうけど、カシムは自ら進んで残業することも多い。
そういう時は、こうしてあたしが先にひとりで帰る。
最初は嫌だったけど。
ふたりで、夕日の赤を見つめながらゴンドラに揺られて帰るのはとても素敵に思えて、異邦語で言うならひどくロマンチックで、心ときめいて、毎日そうできればいいのにと思ったのけど。
けど、いいの。
いいんだ。いいんだよ。こういうのも。
遅くに帰ってきた最愛のあの子に「おかえり」を言うのって、さ。
すごく……。
すごく、いいんだ。うん。
とってもいい。
胸の真ん中がぽわっとするんだよ。暖かくなる。きゅんってする。
近頃になって、ようやくその“良さ”に気付いたんだ。
だから、うん。もう平気。空を見ながら鼻歌まじりに、今日という日との別れを想いながら、今夜の「おかえり」を想いながら、今夜空中移送筺の駅を軽やかに降りてさ。吊り橋も空中通路も、危なげなく軽やかな足取りで。帰路途中の食料品店が閉まってしまう寸前に滑り込んで、夕食と明日の朝食とおべんとのぶんの材料をたっぷり買って。あ、勿論ふたりぶん。あたしとカシムのね。
買い物袋を提げて、空中通路の曲がり角をくるりと曲がって。
さあ、あたしたちの家が見えて──
「ん?」
あたしたちの家が見えて。
あれ。なんだろ。
あたしは、自然と、首を傾げていた。不思議不思議。なんだろ、あれ?
かつてのアデプト用官営住宅の1棟である、あたしたちの一軒家。その玄関先でうろうろしている、もしくは、もじもじしている小さな人影が幾つか。子供たち。うん、あれは間違いない。ホラーでもあるまいし、夕陽の投げ掛ける影の中でもぞもぞと、どこか遠慮がちな子供たちの姿だった。
心なしかびくびくしている風なのは…。
仕方ないよね。壁市に来るのが怖いなんてのは、無理もないこと。
それにしても、そんな怖い場所に、そうでなくても壁市の空中街は素人には危ない、落ちればあっという間に死んじゃうような高々度地区なのに。何の用なんだろ?
影の中の子供たちの様子を観察。ほんの2秒足らず。
何人かの子には見覚えがあることに気付く。
確か、アスルと同じ教育塾の子たちだ。学年は、アスルよりも下のはずで……所謂ところの同級生って奴とは違うはずだけど?
「ぴ」
「こらルクお前が出てったらばれるだろ」
と思ったら。あれれ。
同級生の子たちもいるじゃないのさ。鳥さんのルクに、生意気ズィレ。
あたしは思わず、目を丸くして──
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