あるところに、男がいた。
男は、ひとりのジャガーだった。最後のジャガーだった。
一匹でもなく。一柱でもなく。ひとり。
他のジャガーたちは、もう、世界のどこにもいなかった。
無慈悲にして偉大、無二にして勇壮なるジャガーの神が消えてしまった過去の日から、ただの獣ならぬナワルを有した誇り高きジャガーの戦士たちは、ひとり、ひとりと姿を消してしまった。
最後の男は、元からジャガーであった訳ではない。
欧州スペインの商人と南新大陸の原住民との混血を祖とする、3代目の混血だった。白人であると見なされず、さりとて大地と繋がる誇り高き民であるとも見なされることのない呪われた存在であった。実際に呪いがあるのかどうかは男は知らないし、呪いと言われることの理由がそれぞれの民族の排他性にあることを察するだけの頭はあった。
男は自分の出自に関わる血のどちらをも誇りとすることはなかったが……。
自分の暮らす地への誇りを見出した。
かつて存在したというジャガーの戦士たち。
実在も定かでない、いたのか、いなかったのかもわからないジャガーの神に仕える誇り高きナワル使いたちの存在がそれだ。死を厭わず、牙と刃にすべてを乗せて、戦いを神へと捧げた勇気ある戦士たち。男は、誇り高さ、気高さこそが、世界でただひとりの自分の存在を認めるすべであると認識した。
男は、失われた知識を求めた。
多くの書物を読み耽った。
勉学に励んだ。
多くの遺跡を訪れて、中には人跡未踏のジャガーの神の祭殿さえもあった。
そうして日々が過ぎゆくうちに、男は、ナワルを得た。
民族の区分などに囚われることなく、ただ渇望と羨望のみによって、最後のジャガーの戦士となったのだった。世界最後の“ひとりのジャガー”となった。
そして──
男は複数の超自然的なものと出会ったのだ。
ナワルの知識を得るにあたり関わった闇の碩学結社を率いる黄金王に。
かつて存在し得たかも知れないジャガーの神の“真実の姿”であるかも知れない邪悪なるもの、残酷なる時計仕掛けのもの(チクタクマン)に。
どちらの超自然も男に契約を持ちかけた。
奇妙なことに。
まるで、太古の神々のように。
「獣よ。我らの大敵たるチクタクマンを殺せ」黄金王は言った。
「獣よ。我が機関図書館に記録を残したまえ」残酷な神は言った。
どちらの契約も男は受け入れた。
男の愛する誇り高きジャガーの神であることを棄てた“かもしれない”ものに愛憎込めた復讐をせんがために。
自らの存在と足跡を永遠たるアレクサンドリア機関図書館を納めるために。
どちらをも果たすために、自ら得た異能たるナワルを送り込んだ。
廃墟の遙か地下に存在する、しかし存在しない不可思議の世界──
紫色の地下世界に。
ただひとりの現実として、ジャガーの名と共に。
そして。
そして。
そして。
『あのお方の依代を殺すならば! 黄金と、俺の、爪を!』
『来たれ。収穫するくろがねの刃。
我が声に応えて出でよ、我がかたち』
『おのれ──木偶人形、如きが!』
『スケアクロウ!』
そして──
男のナワルは完膚無きまでに砕け散った。
死を男は体感したこともないが、あれが殺される死の感覚であるならば、二度と殺されはしまいと恐れと共に心へ刻むほどの壮絶な体験だった。
男は疲れ切っていた。
ふたつの目的を果たせたのかどうかは、わからない。
地下世界は消えたが、あの強大なものが消え去ったかどうかはわからない。
地下世界へと送り込んだナワルが砕けゆく際に自分の幾つかが硬質のもの、たとえば機械のようなものに“抜き取られる”異様な感覚はあったが、あれが機関図書館の遣いであったのかどうかは、やはり、わからない。
一度は砕けたナワルを取り戻すには時間がかかるだろう。
男は疲れ切っていたのだ。
だから、男は、自分に生きる力を与える誇りを取り戻すべく、再び、かつてナワルを得た地上最後の聖なる場所へと至った。
すなわち、今はなき、いにしえのジャガーの神の祭殿へ。
南新大陸のくすんだジャングルの奥へ。
そして、男は出会った。
灰色の空の下、廃墟と化した遺跡で。
かつて在ったという空と同じ色の瞳をした、1匹の仔猫と──
◆ ◆ ◆
──あたしは、ちっちゃくなってた。
──たとえば仔猫ぐらいに。
なんでここにいるんだろう?
よく、わからない。
確かあたし、Aのことを心配して、眠くて、Aに怒って、眠くて、まるで何かに引きずられるみたいにすとんってどこかへ落ちてしまって。
落ちて。
落ちて。
ああ、この感じは、前にもあったよ。
落ちていく感じ。地下世界で、何度かあたしは感じていたよね。
そう思ったらここにいた。
ちょっと暑い。
陽差しかな。空を駆ける1輛だけの地下鉄で、昼の青空の彼方で輝くあの赫い光、太陽の暖かさをあたしは感じて空を見上げる。あれ、暗い色?
灰色が空を覆ってた。
あれ。これって、もしかして。
いつもは眼下に見えるはずの灰色雲が“上”にあるってことは──
「ニャア!」
そう、地上!
あたし地上にいるんだ!?
──ん?
──何。今、あたし、なんて言ったの?
驚いて「地上」って漏らしたはずなのに仔猫みたいな鳴き声が聞こえたよ。
変なの。気のせい?
「ニャア」
あれ?
「ニャ」
え。なに。なにこれ。
ニャアニャア、猫の街じゃあるまいし!
あたしはぐるりと周囲を見渡す。元気のなさそうな木々が、それでも鬱蒼と茂ってた。地下世界の、セントラルパークを思い出すけど、あれは石だったもんね。石じゃない。ちゃんと葉っぱのある気が、ちょっと元気ないけど、たくさん。たくさん。
あと、石。
大きな石がたくさんある。
自然の石じゃないよね。人の手が入っていそうな、建物っていうか、これって。
「神の祭壇に先客とはな。
なるほど、仔猫とは皮肉なものだ」
そう。祭壇。だよ。
空を駆ける地下鉄の中で「あれはなに?」「これはなに?」って沢山のことを訊くあたしに、家庭教師役を買って出てくれたAが、あたしに教えてくれたもののひとつ。
ひとが、神さまに祈りを捧げる場所。
すごく古いんだろうね。
立派な、大きな石の祭壇。
壊れて、瓦礫になりかかってる部分もあるけど、階段や意匠、ちゃんと残ってる。
遺跡っていうのかな。古い古い、ひとのいない建物。
そういうものに、なりかけてる、きっと昔はもっと立派だったもの。
祭壇。
ん。あれ、誰いる?
あたしは喋れなくて、誰かが喋ったんだから、いるよね。
あたしは、そうっと下を見る。
声が聞こえてきたのはあたしがいる大きな石の下のあたり。
あたし、ちょっと高い場所にいるみたい──
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