■第5回
―――二人のある夏の一日…紅殻町近辺の山中で―――

【エミリア】
「待たせたか、白子。
……予定よりちょっと早めに来たつもりだったんだけど」
【白子】
「いいえ先輩。私もほんのちょっと前に来たばかりです」
俺は―――時雨宗右衛門(しぐれ・そうえもん)という―――
【エミリア】
「あの……それで白子、その、自転車の後ろに乗っかっているのは……?」
【白子】
「ああ、宗右衛門さんですね。はい、こちらは宗右衛門さんと言います。出がけに見たら、荷台に座っておられまして。その後どんなになだめすかしても降りてくれず……」
【白子】
「仕方ないので、ご同行お願いすることにしました―――エミリア先輩は、宗右衛門さんが一緒だとご都合よろしくありませんか?」
【エミリア】
「い、いいえ、別に……構わないけれど。でも大丈夫? 今日は山道なのでしょう? 転げ落ちたりなどは……」
【白子】
「そちらはきっと大丈夫。宗右衛門さんは私たちよりずっとバランス感覚に優れていますよ」
ああ。なにも問題はない。むしろお前たち二人の方が心配だ。川釣りだと言って、よりにもよってこんな日に。最近の年寄りは、子供達に山に入ってはいかん日の徹底がなっていない。
【エミリア】
「それにしても、無口なんだな、この宗右衛門殿は」
……男というのは、余計な口を叩かないものさ。
いいからさっさと出発して欲しい。こんな日盛りで立ち話じゃ、陽差しがきつくて溜まらない。
【エミリア】
「まあいいか。それと、私は道、判らないから。先導の方はお願い」
【白子】
「はい。でも自転車で行けるのは途中までですよ。後は歩きになります」
【エミリア】
「え……? 山歩きになるのか? だったらもっとしっかりした服装の方が……」
【白子】
「ああ、平気ですよ。少しきつい坂になりますが、ちゃんと道はついていますので」
【エミリア】
「そういうことならいいけれど」
……まあ、大丈夫だろう。この娘たちの行くって言うのはざっと聞いた限りじゃ『権甚(ごんじん)だいら』の瀬のあたり、あの辺りだったら子供でも入られる。
……問題は、今日っていう日にちで。最近の年寄りは子供達に禁入山(ヤマニイルヲキンズ)の日をちゃんと教えておかんのかい。
【白子】
「……そろそろ行きましょうか」
【エミリア】
「なんだったら、自転車、替わろうか?
その、宗右衛門殿が後ろだと、重そうな……」
……失敬な。
【白子】
「大丈夫です。それにエミリア先輩にはクーラーボックス、持ってきてもらってますし。それだって結構重いでしょう?」
【エミリア】
「代わりに君には、私の分の釣り道具を持ってきてもらっている。お互いさまだね。
でも―――持ってきておいてなんだが、クーラーボックス、無駄にならないといいんだけど。ちゃんと釣れるといいんだけど」
【白子】
「ふふ……っ。せめてお互いのお昼の分くらいは、釣れるといいですよね」
◆ ◆ ◆
【白子】
「先輩、岩魚(いわな)、山女(やまめ)は警戒心が強いので、川に姿を映さないように」
【エミリア】
「了解。けっこう難しいんだね。
ところで白子、餌は?
こういう場合は、川底の石の裏についている、カワゲラとかカゲロウの幼虫を使う、って聞いたことがあるけど」
【白子】
「もちろんそちらでもいいんですが―――」
……ちょっと前の娘っ子というのは、川虫なんぞ摘むだけでも悲鳴を上げて厭がったもんだが、この娘たちは勇ましいな。
【白子】
「でもそれだと、エミリア先輩が厭でしょうし、私もあんまり気が進みません。だから今日は別の餌、用意しました。これよ」
【エミリア】
「私は別に平気なんだけど……これは、イクラ?」
【白子】
「はい。まだ解禁して間もないから、これの方がお勧めなの」
【エミリア】
「じゃあ早速、針につけて、と……あっ!?
あーーーっっ!」
おいおい、瓶ごと川に落としちまったよこの娘……。
【エミリア】
「……ごめんなさい、白子。手が滑ってしまって……蓋、開けっ放しだったから、中味も全部流れていっちゃったみたい……」
【白子】
「あらぁ……。でもまあ、仕方ないですよ、やってしまった事は。とりあえず先輩の最初の一投目は、もう着けてあるイクラでいいとして、次からはやっぱり川虫を捕りましょうね」
【エミリア】
「ごめん……うん? なに、宗右衛門殿?」
まあ待ちなさい子供達。中味、流してしまっても、多分こういう場合は、しばらく待てば……。
そうして待つ事しばし。
【白子】
「はい? もういいの、宗右衛門さん?
いいみたいです。エミリア先輩、始めてみて下さい」
【エミリア】
「うん……こんな渓流釣りなんて、初めてだから、ちょっと緊張するね。ちゃんと釣れるといいな……。……って?
これ、引いてる!?」
【白子】
「先輩、合わせて!」
【エミリア】
「え、あ、こ、こう……っ!?」
【エミリア】
「うそ……いきなり釣れちゃった。
竿を入れてから、一分もたたないうちに。
岩魚って、警戒心が強いって話だったのに」
【白子】
「警戒心は強いけど、貪欲でもあるから。
だから、水面にこっちの姿を映しちゃいけないけれど、釣る事自体はそんなに難しくはないの」
【白子】
「それにここらは、魚も濃いし。
でも初釣果。よかったですね、先輩。
……え? なあに宗右衛門さん?
お魚、欲しいんですか?」
違う。さっきなんで待たせたと思っている。
【エミリア】
「え? お腹割いて、内臓を出せって?
それは構わないけれど……」
【白子】
「先輩、これを使って」
【エミリア】
「変わった刃物だね。この国の刃物で両刃っていうのは珍しいんじゃないか? ……『ウメガイ』? そういう名前……ふぅん」
【白子】
「料理とか、お魚の内臓を出す時には、こっちの薄い方の刃を使って。反対側の刃は厚めで、木の枝を払う時などに用います」
まあ能書きはいいから、はやくそいつのワタを出してみるがいいよ。
【エミリア】
「うわ……この岩魚、胃にびっしり、イクラ……さっき私が流しちゃった奴かこれ。
こんなにたらふく食べていたのに、まだ私の餌に掛かるなんて」
【白子】
「岩魚は貪欲ですから……。でもその、お腹から出てきたの、形も全然崩れないから、そのまま餌に使えますね……あ、宗右衛門さん、さっき『待て』ってしたのは、流してしまったイクラを、岩魚が食べるまで待てって、そういうこと?」
そういうこと。基本的にあいつらは丸呑みだからさ。まあそれで餌の心配もなくなったろう。続けるがいいよ。
◆ ◆ ◆
【白子】
「……ああ、ずいぶん沢山釣れましたねえ。
二人分に充分どころか、ご近所にお裾分けできるくらい」
【エミリア】
「これ、お昼分どころじゃないね。
そうそう、早速食べるにしても、どうやって? とりあえず焚き火はおこしておいたけど。塩を振って焼く?」
【白子】
「もちろん。それが一番美味しいです。
でも今日は、他のやり方も試しますね。
まず、平たい石を探して、焚き火の中に放りこんでください」
【エミリア】
「うん。ちょっと待ってて……」
ほうほう、石を焼いて? かんかんに焼けたら、周りを味噌でぐるりと囲って? ははあ、なるほど。
【白子】
「お魚をぶつ切りにして、途中で取ってきた、タラの芽とセリを細かく刻んで……。
火傷しないように注意ですよ」
【エミリア】
「それで一緒に、お味噌を少しずつほぐしながら焼く、か。ああ、素晴らしい匂いだねこれは」
【白子】
「料理とも言えない、キャンプ料理だけど、お山の中ではこういうやり方のほうが美味しいです」
【白子】
「塩焼きの方もじきに焼けるから、そうしたら宗右衛門さんにもお裾分けしますね……宗右衛門さん? どちらに?」
もちろんお相伴には預かる。
が、お前たちは気づいてないようだが、ちょっといけないなこれは。
だからこの日は山に入っちゃいけないんだ。
こういう日には、山の森の中には質の悪いモノが出てきて動きまわる。お前たちの爺さま婆さまの若い頃には、運悪く出くわしちまって、病気になったり気が変になったりした気の毒なヤツもあったもんだ。
いろんな名前で呼ばれている、山の怪(ヤマノケ)。今でもいるんだぞ、こんな風に。
いやまあ、入っちゃいけない日に山に入って難に遭うんだから、自業自得だし。俺も正直面倒くさい。
面倒くさいがしかし―――お前たちはまだ若いんだから、そういう目に遭わせるのも可哀相だな。
……ちょっと待っていなさい。
叩っ殺してくるから。
◆ ◆ ◆
【エミリア】
「……宗右衛門殿が、中座したのはなんだったんだろうな。入っていった森の奥で、すごい鳴き声が響いて、一斉に鳥が飛び立って、後はとても静かになって……宗右衛門殿だって、戻ってきた時は毛が全部逆立っていた」
【白子】
「……あの、先輩。
こういうこと、後から言うのもなんだし、私もすっかり忘れてたんですが……」
【エミリア】
「なにかな? そういう歯切れの悪い言い方をされると、余計に気になるよ。
べつに怒ったりするつもりもないから、言ってみて?」
【白子】
「……ずっと前に祖父から聞いた事があったんだけど、初夏のこれこれこんな日は、鳴るべく山に入るのを避けるようにって」
【白子】
「なんでも、森の中に正体不明の妖怪が現れる、と……」
【エミリア】
「…………」
【白子】
「…………」
【エミリア】
「ま、まあ何事もなかったわけだから。
魚も沢山釣れたし、クーラーボックスも満杯になったし」
【白子】
「で、ですよね……」
【エミリア】
「それに、あんまり怖いとかも感じなかった。でもこの、宗右衛門殿が途中で森の方に入っていったのは……」
【白子】
「あまり、深く考えないことにしましょう……ね、先輩」
そう。あまり深く気にしないほうがいい。
お前たちには何事もなかった。
それで充分じゃないか。
【エミリア】
「しかし……こうつくづく見ても、大きな大きな黒猫だなあ、宗右衛門殿は。
中型犬くらいあるんじゃないか? 所々白い毛の筋があるのが、夜の中の流星みたいで素敵だね」
【白子】
「黒猫は爪も全部黒いものだけど、宗右衛門さんは前足にも一本だけ白いのがあるそうです。……紅殻町の猫の中でも、一等偉い猫だそうで」
【白子】
「ただ……この宗右衛門さん、私が物心つく前から町にいたみたい。祖父も、子供の頃から知ってるって……」
【エミリア】
「……それは、なんとも……ま、まあ猫は九つの命があるという伝説もあるし。
別に私たちに害を為そうって感じもないし」
為すもんかね、町の連中や子供達に、なんで災いなんか。
むしろ逆だという。町の夜。町の禁足地。それら諸々、秘密の数々。護っているのは誰だと思っているんだか。
ま、娘たち。
これからも変なところに入りこまないよう、気ぃつけなさいよ。
この紅殻町や、町の周りにはまだそういうところがなんだかんだって残ってるんだからさ。

◆ ◆ ◆
一声、低く錆びた、銃鉄色の渋い鳴き声を残して、大なる黒猫は白子の自転車の荷台を降りて、紅殻町の何処かへと駆け去っていったのだった―――
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