■第4回

 ―――これまで三回にわたって紅殻町の六つの区画を紹介してきたが、とりあえず今回でそれにも一区切りをつけようと思う……。
  最上川の西側の字紅殻、字木登、字共由、そして東側の字青元、字村前と紹介してきて、残りは一つとなる。
  さてそれでは―――

 字(あざ)「糸ヨ水(いとよみず)」



  前回紹介した字青元の北方に位置する、緑濃い区画だ。おそらく人口密度は川を挟んで対角線上の沼地の区画、共由と同じくらいに低い。というのもこの辺りは元々紅殻町の田園地帯だからである。同じように住民が少ないとはいえ、共由の方はどうしようもなく陰鬱な沼地なのだが、こちらは水田とその周縁に生い茂る雑木林、日はさんさんと降り注ぎ、春には萌えて、夏には繁り、秋には実り、冬だけは雪に閉ざされる、と四季の変化蒼天の下に実に豊かな区画だ。

 景観は、樹々や休耕地、手入れされた水田がぽつぽつと点在する中に、あちらこちらに洋館が見え隠れしている、といった塩梅だ。
  ただ―――これもご時世なのか、水田はほとんどが休耕田となってしまっている。それも、再び耕され水が入れられる望みがほとんど無い、事実上放棄されたも同然の田ばかりだ。早くも原野に戻りつつあるものもあり、人の手の入らぬ田畑の荒廃は早いということを如実に物語っている。もちろん細々と稲作を営んでいる住民もあるにはあるのだが、それも他の区画から通ってくる人々だ。

 それに洋館だって、その数は僅かに四つ、おまけに三つまでが廃屋となり、かつての宏壮さを忍ばせるだけに寂寥の感を強く抱かせしめる
  現住の館は一つだけ。この洋館の一族もちょっと風変わりな人々であるが、それは後述する。

 ……もともとこの糸ヨ水は紅殻町の中でも田畑ばかりの土地だったのだが、紅殻町の特産物……当然珍奇物品も含まれていたのではないか、と僕は睨んでいる。珍奇物品は現在でこそほとんどが喪われてしまったけれど、明治中頃から大戦間あたりまでは、盛んに流通していたようだから。
  と、話が少し逸れた。ともかく、紅殻町の特産物に目を着けた、欧州の富裕な(そして物好きな)貿易商が商売の拠点として、あるいは国内の好事家の富豪が別宅として、大戦間に土地を買い上げ洋館を建てさせた事によって、周囲の地元民から「お屋敷町」と呼ばれるようになったとされている。
  こうして四つの洋館が建築されたけれど、東北の山近い場処にそんな宏壮な屋敷を構えたことに反感を持つ住民は多く、川の東側の住民も西側の本町の住民もいい顔をしなかったようだ。そんな反感など無視すればいいだろうに、洋館住まいの家族達はよほど気が退けたのだろうか―――
  地元民の機嫌をなだめるためそれぞれ出資しあい、地域への貢献と称して、この糸ヨ水に新たに「私立紅殻小学校」を建立した。これまで学校というものがなかった紅殻町にとっては、町の児童のための学校は大いなる貢献であったことは確かで、町民達も喜んだは喜んで、糸ヨ水は一時は子供達の声で賑わったという。
  けれど。紅殻町にはそもそも子供の数が少なかった。
  終戦後、お屋敷町の四家族のうち三家族が商売に見切りをつけ、あるいは没落するなどして屋敷のみを残して去っていったという。
  それに折角の小学校も昭和40年代に入って廃校となってしまった。ただ校舎を取り壊すのも費用がかかるということで、町民達は結局廃校舎を、町の郷土資料館兼図書館として改装したが、もっと人口のある市町村であってもこの手の知育施設など閑古鳥が鳴くもので、ましてこの紅殻町では客などほとんど無いまま今に至る。
  ……僕も資料館には何回か見学に行ったが、その時も僕の他の客といったら、地元の子なのだろうか、黒髪の綺麗な、小さな女の子が一人いたきり。他には高齢の館員くらいしかいない、ひっそりした館だった事を記憶している。

 このように、今では糸ヨ水は、資料館に在駐する館員と、洋館にただ一つ残った一族の他は、人跡はないに等しい。

 この一族というのも少し奇妙な人達で、館にひきこもり外にはほとんど出ようとはせず、紅殻町の他とは進んで関わりを持とうとしない人々だ。
  ―――実は僕は、一度だけこの館に見学を許され、そこに住まう人々と面会を果たした。残念ながら詳細を語る事は館のご主人に禁じられてしまったけれど、ひどく濃密な時間となった。
  臈長(ろうた)けて艶冶(えんや)な女主人を始めとした、美男美女揃いのご一統と、執事とメイド。ルキノ・ヴィスコンティの映画もかくやの典雅にして重厚な館と調度群。この時代にこんな暮らしを、日本の一地方の片隅でひっそりと、けれど華やかに、そして濃厚に営んでいる人々がいようとは誰が考えられるだろう。けれどもなにかが奇妙なのだ。どこかが妖しいのだ。それを語る事は許されていないのだが。
  もとより隠れ里のような趣のある紅殻町の中でもあの館は、特に異質で、結界の中の結界とでも言うべき小世界と言えるだろう。断言して良いのは、あの一族は紅殻町での他の営みに一切関わってくる事はなく、それは今後も同じで、町とは無縁に在り続けるだろう、という事だけだ。

 ―――これで、紅殻町の六つの区画の紹介は一応一通り終わった事になる。
  紅殻、木登、共由、青元、村前、糸ヨ水。
  ここで僕から読書氏にちょっとした謎々だ。これらの六つの字(あざな)を眺めて、なにかを連想しないだろうか? そしてなにか一つ足らないと感じないだろうか。青元、がちょっと難解かも知れないが、この六つの字の中に何が足らないのかを見出したなら、あなたは多分、紅殻町の中にもう一つの区画を見出すことができるかもしれない―――

 そうそう、一つだけ忘れていた。区画の紹介はこれでおしまいだけれど、紅殻町にはもう一つ紹介しておきたい印象的な建造物がある。
  最上川の西側と東側を結ぶ、「紅殻本橋」―――通称「本橋」だ。



  これは二車線+歩道の幅を持つ、アーチ構造に木造の屋根と家屋が乗る、日本では他に類を見ない橋である。イタリア、ベッキオ橋の、橋の上が木造のアーケードとなっているところを想像してもらえれば話は早いだろう。単に橋、というよりは木造のアーケード通りであり、橋内部には倉庫、小部屋などが軒を連ねる。これらの小部屋は普段は無住でシャッターも下ろされているが、町内の行事や祭事の際には解放され、露店や休憩所などに使われる、他にも―――
  この橋には、奇妙な噂がひっそり伝えられている。紅殻町にはいまだに物忌みの習俗が伝えられており、住民達が夜歩きを控える晩があるのだが、そう言う夜にこの紅殻本橋に明かりが灯り、「夜市」が立つ、というのだ。
  物忌みの習俗が残されているとはいえ、昔ほど厳格ではなく、あまり気にせず夜歩きする住民もあるのだが、彼らは見たという。
  橋の中で不思議な装いの人々が不思議な品物を商いしているのを、見たという。見たというがしかし、不思議と橋には近づけなかっただの入れてもらえなかっただのと矛盾した言葉も多く、どうにも判然としない。もっともこの夜市に関しては、紅殻町の伝説・風聞の中でもきわめて曖昧な部分が多く、こればかりはまさに根も葉もない駄法螺(だぼら)である可能性も否定しきれないのだけれど。
  だけれど、僕がとある偶然から入手した、この写真は一体なんなのだろう。建物の様子からして橋の内部に見えるのだけれど―――


 さて、それでは、読書氏よ。親愛なるあなたよ。見知らぬ友人よ。
  町の区画紹介は今回でおしまい。
  僕の出番も今回でひとまずはおしまい。

  次回はちょっと趣向を変えて、とあるお方に紅殻町にまつわるとあるお話などを語っていただこうか、などと考えている。



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